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本邦における東洋医学の現況:歴史復興の時を迎えて
牧角和宏
はじめに 東洋医学という語句について 日本における東洋医学簡史
医師による東洋医学診療の現状 東洋医学の教育・普及活動 古典研究の重要性について
[はじめに]本稿では我が国の東洋医学について、その概要と現況を述べ、普及、教育、研究に関する問題点について論述する。
治療手段として漢方薬や鍼灸を用いる、中国に源を発する伝統的医学体系を本邦では一般に「東洋医学」と呼称し、英訳語として Oriental Medicine が用いられている。
「東洋」は清時代以降の中国においては「日本」を意味する言葉である。従って「東洋医学」は中国語では「日本の医学」と言う意味になり、我が国の認識と食い違いを生じる。
英訳の Oriental も妥当とは言えない。Orient は確かに東方を意味する言葉ではあるが、「オリエント地方」は本来決して日本や中国を指す用語ではないからである。
このような矛盾を生じない用語として、近年「伝統的中国医学:Traditional Chinese Medicine(略称TCM)」が用いられるようになりつつある。TCM はWHOでも使用されている用語であり、今後このような国際共通語が浸透することが望ましい。
日本の医学は、明治政府がドイツ医学の採用を決定するまで、東洋医学がその主流を占めていた。中国系伝統医学が日本に招来する以前に、我が国に独自の民族医学体系が存在していたか否かについては不明であるが、すでに五・六世紀頃には東洋医学は中国大陸より他の諸文化とともに輸入され、行われていたことが記録されている。大宝律令(701)には唐の制度にならった医療制度が定められており、養老律令(710)中の「医疾令」には医鍼生(現在の医学生にあたる)の教科書として「甲乙経」「脈経」「黄帝内経」その他の中国医書が指定されている。中国医書の日本人向けの再編纂作業も行われ、984年には丹波康頼(たんばのやすより)によって医心方(いしんぽう)が著されている。
江戸時代には各藩の藩校教育として医学が重視された。また、幕府の命により江戸医学館という教育・研究・臨床のための公的施設が設置され、幕末まで高度の文献考証や古医書の校訂出版事業が行われ、多数の業績を挙げていたことは特筆に値する。
先に述べた医心方は中国伝来の医書の集大成であり、当時日本に舶来された医学書が多数引用されている。医心方に引用された中国の古医書の多くはすでに失われており、引用された条文からかろうじてその片鱗が伺われるという点で、医心方は古代中国医学をうかがい知る貴重な資料であるとされている。古伝の書写本をもとにした医心方の木版印刷が江戸医学館において行われている。医心方は中国においても重要視されており、今日江戸医学館本の影印が中国で出版され、日本に逆輸入されている状況である。
千金方(せんきんぽう:655頃)、千金翼方(せんきんよくほう:670頃)は唐時代を代表する医学書である。宋・元時代に木版で復刻印刷されたこれらの最善本は中国ではなく、日本に保存されていた。江戸医学館が幕末に復刻した千金方・千金翼方が、今日中国において基本文献として用いられ、医心方同様に影印本が逆輸入されている。この時期の日本の東洋医学研究、出版のレベルがいかに高度なものであったかが伺われよう。
近年、江戸末期の日本における東洋医学研究の再評価が日中両国で盛んになりつつある。本稿の目的と離れるので詳述を避けるが、大陸中国で現在行われている「中医学」は必ずしも中国古来の伝統と歴史を忠実に踏襲したものではない。幕末日本の東洋医学研究の史的発掘作業により、日中両国において、東洋医学の概念に今後かなりの変革が生じるであろうことを希望的観測としてここに付言しておきたい。
明治以降、我が国の医学教育はドイツ医学への方向転換を余儀なくされ、江戸医学館をはじめとして、全国各地に存在していた藩校はその門戸を閉じ、以後漢方や鍼灸の診療はごく一部の篤志家によって細々と受け継がれ、命脈を保ってきたのであった。
日本において、近年東洋医学がようやく実地医家に受け入れられ、治療に応用されるようになったと言っても、本来東洋医学の二本柱である漢方と鍼灸の双方がバランスよく普及されて来たというわけではない。
漢方薬が一般医家の治療選択の一手段として定着したのは昭和51年の医療用漢方エキス製剤(以下エキス剤)の大量一括健保採用以降のことである。
東洋医学の普及は、昭和50年代にはいり、全国各地に漢方研究会、東洋医学研究会等が組織され、医家向きの漢方講習会が広く行われるようになってから一気に拡大した。これら研究会の設置や講習会の開催は、エキス剤メーカーの強力な販売戦略に後押しされた形で行われて来たと言う事情がある。メーカー主導型の展開においては漢方薬の使用方法についての知識の普及が主体になったのは当然の帰結であった。
漢方薬と異なり、鍼灸は鍼灸師による治療が一般的である。医師が直接鍼灸治療を行う、あるいは医師の指示により鍼灸師による治療がなされるのは少数の医療施設に限られており、基本的にはエキス剤健保採用以前の漢方薬治療とほぼ同様の状況であろう。
これは、漢方薬に比較して鍼灸治療の効果が劣っている、あるいは現代医学的治療が鍼灸治療よりも有効なため鍼灸治療がないがしろにされている、ということでは決してない。鍼灸治療の有用性については、鍼灸治療院があちこちの街角に立ち並び、経営が維持されていることからもあきらかである。現行の保険医療システムでは、医師が鍼灸治療を医師の資格のみで行った場合、物理療法手技料としてごく少額しか算定できないため、診療報酬面で不採算となる。そのような事情にもかかわらず、鍼灸治療を併用する実地医家が存在しているという事実からも、鍼灸治療は治療手段として有用であると言えよう。
日本の現状において、医師の治療選択手段の一つとして漢方薬による治療が広く受け入れられている反面、鍼灸治療が十分に普及していない理由は、その有用性の高低によると言うよりも、東洋医学の普及において、漢方エキス剤メーカーの活動に負うところが大であったこと、そのため、漢方薬の知識の普及に留まり、必ずしも東洋医学全般の普及活動が広く行われて来たわけではなかったというのが実情であろう。
元来漢方薬(薬物療法)、鍼灸治療(物理療法)という二つの手段が用いられる東洋医学において、鍼灸治療は医師の治療手段としてはあまり用いられていない、という点も現在の日本における東洋医学の特徴として認識しておく必要があろう。
東洋医学は古代中国人(漢民族)の生命哲学を背景にした伝統的医学体系である。この全体像を把握するにはそれなりの時間をかけた学習を要する。医師として多忙な活動の合間に細切れに講習会等に参加する程度で十分な俯瞰図を描けるほどに東洋医学を習得することは困難であろう。体系的な知識の普及には学生教育に東洋医学を組み込む必要がある。しかし、現在日本の大学医学部において東洋医学の系統講義が行われているのは富山医科薬科大学、東京女子医科大学など少数にすぎない。日本では、医学生は医学部在籍中に、東洋医学について学習する機会をほとんど持っていないというのが実情である。
医学生を対象とした東洋医学の普及活動として、北里研究所付属東洋医学総合研究所(東京)や日本TCM研究所(四日市)の主催する短期間のセミナーがある。北里研究所における「医学生のための東洋医学セミナー」は1976年より、当時北里研究所に所属していた安井広迪らにより開催された。このセミナーは約1週間で漢方・鍼灸の基礎と臨床を一通り網羅するもので、1985年まで続けられた。現在東洋医学の分野で活躍している多数の医師がこのセミナーの出身者であることから、このようなセミナーの果たす役割は大なるものがあると言えよう。日本TCM研究所は安井が北里研究所を辞した後開設した東洋医学研究機関である。1987年より三重県四日市市において「医学生のための漢方医学セミナー」を主催。このセミナーは、毎年八月に約1週間の合宿形式で行われ、例年50名以上の医学生の参加希望がある。北里研究所のセミナーも1991年より再開され、毎年全国から多数の参加を得ている。これらの事実より、多くの医学生が東洋医学を学習する場を求めている事が伺えよう。
富山医科薬科大学和漢診療学教室のように、東洋医学に関する正規の臨床講座が全国の大学医学部に設置されることが時代の要請として望ましいと考えられる。
東洋医学の立脚点は、二世紀頃に成立したとされる『傷寒論』(しょうかんろん)、漢時代には存在したとされる『黄帝内経』(こうていだいけい)、後漢時代に成立したとされる『神農本草経』(しんのうほんぞうきょう)などの古典である。大昔に著された書物が受け継がれ、実用に供されているということは驚異的なことである。
これらのうち、特に『傷寒論』(仲景書)は漢方臨床の最も重要な書籍である、と認識されている。今日我々が一般に用いている『傷寒論』のテキストは、宋時代(960-1127)に政府の命を受けて校正・復刻・出版された『宋板傷寒論』(1065)が祖本となっている。『宋板傷寒論』の実物は伝わっておらず、実際には『宋板傷寒論』に成無己が注釈をつけた『注解傷寒論』(1144)が広く用いられてきた。成立後800年以上を経て再編集されたものにさらに注釈や改変が加わったものが、研究や臨床応用に供されてきたのである。現在日本および中国で一般に用いられているものは、『注解傷寒論』をさらに簡略化したものが基本となっており、宋以前の姿を正しく反映しているものでは必ずしもない。『宋板傷寒論』の復刻は明時代に一度行われている(趙開美1599)。しかしすでにこの時代には先述の簡略本が全盛を極めており、それ以降も明趙開美本を用いて傷寒論を研究した者は皆無である。
およそ古典を研究する場合、その原文がいかなるものであったかをできるだけ正確に復元する必要がある。伝承過程での瑕疵は可能な限り修正されねばならない。中国では清時代(1636-1912)に文献考証学が栄えたが、その対象は主に四書五経であったため、医書については十分な正文批判(Texitual Criticism)がなされていない。
古典医書の文献考証については、むしろ幕末の江戸医学館において重要な業績が積み重ねられている(森立之ら)。この伝統は、明治維新とともに潰え去り、残念ながらつい最近までほとんど等閑視されてきたのである。
古典の正文批判には、できる限り多くの良質の資料を比較検討する基礎作業が必要である。幸い日本には既に中国では失われている歴史的版本が今日でも数多く保存されており、近年重文、国宝級の古典医書のリプリントを利用できる環境が整ってきた。江戸末期に高みを極めた日本の東洋医学研究の伝統を再興すべき時期が巡って来ているのである。これらの基礎研究が、今後臨床にフィードバックされたときに、東洋医学は更なる展開をむかえることであろう。(文中敬称略。文献は文字数の関係で省略した。)
(「内科学進歩のトピックス」九州大学出版会
1998 より抄録)